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#3: August Song

流れ落ちる涙のしずくと
雨のしずくがひとつになる
透き通った水の中に
あわい面影が浮かぶ

誰もいない道の向こうにむかい
あの人の名を呼び続ける
時の流れに溺れた人は
二度と帰らない

(「斑鳩雨に濡れて」 * Morihiro 1984)

2001年、8月のこと。
TVでは連日小泉首相の靖国参拝問題が話題となっていた。
小泉さんの見解は明晰なものではあったが、たったひとつ僕の印象に残ったのは、A級戦犯合祀のことにずばり話題が及んださいに、結局、言葉を濁し説明を避けたことだった。そのとき、僕は、松下幸之助が戦争に対してとった見解ととても似たものを感じた。

立志伝中の人であり「経営の神様」と評され、そして間接的には僕のビジネスでの師匠ともいえる幸之助さんは、自伝などによれば、太平洋戦争が終わった時、「これからは平和産業の時代だ、日本の復興のために生産に励もう」、とこころざし、労使一体となって、GHQに対しての財閥指定解除嘆願等の活動を行ったと記されている。
その一方で、あまり語られていないことであるが、松下電器が戦時中、軍国体制に「積極的に協力」したのは事実である。飛行機、船舶など兵器生産も手がけ、また戦争遂行への協力を呼びかける社名入りポスターも残されている。そのこと自体は、その時代に日本で経済活動をしていた企業として、仕方ない面もあっただろう。
しかし非常に残念なのは、戦後、松下幸之助に関連する本は山ほど書かれた中で、当時の松下電器が戦争協力を行ったことに対する評価(それが反省であれ正当化であれ)について書かれたものは殆どない。戦争について語ること自体をせず、全てを放り投げて、戦後の経済復興に没頭し、今日に至っているのである。

「太平洋戦争の敗北で国土と国民に多大な損害を与えた責任は誰にあったのか?その責任は終戦当時明確に問われたのか?」この質問を、終戦当時5歳だった父に聞いてみたが、残念ながら明確な回答は得られなかった。ましてや戦後生まれの小泉さんにそれを論評せよというのはそもそも無理な話かもしれない。
高校生の時に読んだ歴史の教科書では、「終戦直後には『一億総懺悔』という言葉が流行し、その後『全て東条が悪い』という世論となった」と読んだ記憶がある。いずれにせよ、東京裁判は、戦勝国による戦勝国のための裁判でしかなく、日本人は自らの家族と国家を破滅に追い込んだ為政者の責任を自ら問うことはなかった。50余年の時を経て、バブル崩壊後の世の中、経済戦争の戦犯たちも、その殆どは責任を問われることなくのうのうとしている。このメンタリティが変わらない限り、日本はまた同じ過ちを犯すのではないかと、私は危惧してやまない。

そして、2003年8月15日
毎日、九段下の駅で地下鉄を降りて、階段を上り、靖国神社の境内を通って勤め先に向かう僕は、今日、土砂降りの雨の中、機動隊員達がレインコートとヘルメット姿で場を固める姿を見た時、この場所にとって今日が特別な日であることを久しぶりに思い出した。
境内にはテントが張られ、既にたくさんの喪服姿の年配の人々が隊列を組んでいる。そのかたわらで、ぬかるみの段差にはまって動けなくなっているワゴン車を、ずぶぬれになりながら必死に推している人々の姿が、今の日本の現状を象徴しているような気がなぜかして、せつなかった。
観光バスを降りた、山形県の遺族たちが境内を慰霊会場に向けて歩いていく。そのさりげない姿の中に、このひとたちのすごした青春の色が特別なものであったことを無言のうちに語っているようだった。

1945年8月15日、どんな天気だったのか、正確には知らないが、当時の写真を見ると晴れていたようである。しかし、やはり、こんな土砂降りの雨の方が、この記念日には似つかわしいのかもしれない。

そういえば、いつか、夫婦でぶらりと立ち寄った古本屋で、昭和天皇の写真集をめくっていると、彼女が「戦争の後の昭和天皇って、なんか感情をなくした人間みたい」と言っていた。あらためて写真を見てみると、たしかに、戦前の写真は笑っていたり、すましていたり、人間らしい表情が感じられるのに、戦後の写真は、どれもこれも、感情を失った仮面のような表情ばかりに見えた。
戦後、悲惨な敗北の責任を取ることはおろか、自らの戦争体験について、語ることさえも許されず、既に死んだはずの時間を40年以上に渡って生きることを強制された彼にとって、人生とはもはや牢獄でしかなかったのかもしれない。

 


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